チーッス !!
21時を回ったところでようやく近所の大盆踊り大会も終了したみたいです。盆踊りの太鼓やリズムは洋楽好きのアタクシとて日本人のDNAには逆らえず、いくらはらってもぬぐえやしません。(ハア コリャ コリャサー)北海盆唄はこんな感じです。ハアー 北海名物 (ハア ドウシタ ドウシタ)数々 コリャ あれどヨー(ハア ソレカラ ドウシタ)おらがナー おらが国さの コーリャ ソレサナー 盆踊りヨー 。これ、三日もつづくのかい。North silver station あなたの心にビアン友 シルバでお送りします。今夜は終戦記念日と題しましてお話をしたいと思います。曲は気分を持ち直してシビアに75年、大好きなピンクフロイドから「狂ったダイヤモンド」でスタートです。
64年前の今日、正午にラジオから流れた、当時恐れ多くも天皇陛下の5分間の肉声。のちに「玉音放送」と呼ばれるものです。それはヒロシマ・ナガサキに原爆が投下されてから10日目のことでした。よくテレビなどで引用される部分は「堪へ難きを堪へ、忍ひ難きを忍ひ ..」あとの難しい言い回しはよく意味が分かりませんでしたし、アタクシよく聞いてもいませんでした。(笑)
あらためて読んでみるのもいいかなと、口語訳をご紹介させていただきます。(ウィキより引用)
『 私は、深く世界の大勢と日本国の現状とを振返り、非常の措置をもって時局を収拾しようと思い、ここに忠実かつ善良なあなたがた国民に申し伝える。
私は、日本国政府から米、英、中、ソの四国に対して、それらの共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告するよう下命した。
そもそも日本国民の平穏無事を図って世界繁栄の喜びを共有することは、代々天皇が伝えてきた理念であり、私が常々大切にしてきたことである。
先に米英二国に対して宣戦した理由も、本来日本の自立と東アジア諸国の安定とを望み願う思いから出たものであり、他国の主権を排除して領土を侵すようなことは、もとから私の望むところではない。
ところが交戦はもう四年を経て、我が陸海将兵の勇敢な戦いも、我が多くの公職者の奮励努力も、我が一億国民の無私の尽力も、それぞれ最善を尽くしたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転していないし、世界の大勢もまた我国に有利をもたらしていない。
それどころか、敵は新たに残虐な爆弾(原爆)を使用して、しきりに無実の人々までをも殺傷しており、惨澹たる被害がどこまで及ぶのか全く予測できないまでに至った。
なのにまだ戦争を継続するならば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明をも破滅しかねないであろう。
このようなことでは、私は一体どうやって多くの愛すべき国民を守り、代々の天皇の御霊に謝罪したら良いというのか。これこそが、私が日本国政府に対し共同宣言を受諾(無条件降伏)するよう下命するに至った理由なのである。
私は、日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対しては遺憾の意を表せざるを得ない。
日本国民であって前線で戦死した者、公務にて殉職した者、戦災に倒れた者、さらにはその遺族の気持ちに想いを寄せると、我が身を引き裂かれる思いである。また戦傷を負ったり、災禍を被って家財職業を失った人々の再起については、私が深く心を痛めているところである。
考えれば、今後日本国の受けるべき苦難はきっと並大抵のことではなかろう。あなたがた国民の本心も私はよく理解している。しかしながら、私は時の巡り合せに逆らわず、堪えがたくまた忍びがたい思いを乗り越えて、未来永劫のために平和な世界を切り開こうと思うのである。
ぜひとも国を挙げて一家の子孫にまで語り伝え、誇るべき自国の不滅を確信し、責任は重くかつ復興への道のりは遠いことを覚悟し、総力を将来の建設に傾け、正しい道を常に忘れずその心を堅持し、誓って国のあるべき姿の真髄を発揚し、世界の流れに遅れを取らぬよう決意しなければならない。
あなたがた国民は、これら私の意をよく理解して行動してください。』
断腸の思いで語られたであろう言葉。皇室内に設けられた小さなスタジオで天皇陛下はひとりでこれを読み上げたそうなんだけど、関係者の話によると陛下の肩はずっと細かく震えていたそうです。
「無条件降伏」と呼ばれる終戦の最悪の形と結果。国民並び兵士達の、なら自決をという日本人の誇りとそれが叶わぬ屈辱的な思いと恥の概念。圧倒的な敗北感と脱力感。戦地から無事に帰ってきた数少ない兵隊さんの心は晴れることなくその後64年間、閉ざされ、罪の意識に囚われたそうです。
最後の戦争(太平洋戦争)での犠牲者の数はわずか4年間で軍人が230万人、一般国民が80万人、計310万人だそうです。この人数を比較するものがないけれど札幌の人口は180万人という風に考えるととてつもないと思います。
この放送をあたしの父は11才で海岸に上がった昆布を大人達に混じって岸辺に広げる作業をしている時に聞いたそうです。照りつける夏の日射しの中、周りの大人達は泣き崩れ、なんとなくこれで戦争が終わったんだと思ったそうです。
同時刻、母は9才で樺太はサハリンの自宅で家族と聞いたそうです。亡くなった祖母が声を上げて泣き、年かさの兄妹達も泣いていたそうです。母もやはりピンとはこなくて、でも戦争が終わったことだけはわかったそうです。
まだ絵本などもそんなになかったアタクシのご幼少時代、母は「桃太郎」や「鶴の恩返し」などの民話に混ぜて戦中戦後の話を寝物語で語ってくれました。
夢うつつで聞いたそれらの話。終戦から数日経ったある日、樺太からの引き揚げ船の甲板は人で溢れていたそうです。中でも裕福な人達は船内へ、貧しい者達が甲板にギュウギュウ押し込められたこと。何艘もの引き揚げ船がロシアの大艦に沈没させられたこと。甲板の人達の方が多く助かり生き残ったこと。自分達の船もいずれ沈むと祖母が子供8人を着物の紐でくくり、その紐の色が場違いなほど綺麗だったこと。周りの家族が撃沈の恐怖に絶えられず次々に海に身を投げて、祖母も子供達を鷲づかみにして飛び込もうとしたその時、長女が死ぬるならいつでも出来ると止めたこと。母を可愛がっていた独り暮らしの近所のオジサン(胸を患って徴兵されなかった人)がアオという馬を飼っていて、海岸で「ロスケ(現在のロシア人のこと)に捕まるなよ-」といって馬のお尻を思い切り叩いたこと。船が岸を離れるとそのアオがどこまでもサハリンの海岸を追ってきたこと。オジサンは泣きながら何度もアオと叫んだこと。そのオジサンの膝にしがみついて「オッチャ-ン」と泣きながら呼んだ幼い母のこと。
結局、母達が乗った船は被弾しながらもなんとか留萌港にたどり着き、終戦のあとの飢餓の方が恐ろしかったことなどを聞いて育ったわけです。
前々回の番組でもお話しましたが、ヒロシマ・ナガサキの原子爆弾投下、さかのぼって1944年の東京大空襲では死亡・行方不明者は10万人以上と言われています。わずか一回の空襲で東京市街地の東半分、実に東京35区の3分の1以上の面積(約41km²)が焼夷弾によって焼失しました。そして向かえる終戦記念日。戦争で日本もたくさん他国の人を殺しました。年に一度のこの季節、世界の平和を祈ると共に自分達の国の未来を、日本人の心を、誇りのことをあたしは考えるようにしています。長くなってすみませ-ん。
戦没者の方々に心より哀悼の意を表します ..
今夜はこの辺で。
see you next !!
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